リアスの風〔第4回〕
戦前の裁判員
裁判員裁判が,今後,東北各地でも順次実施されるようです。
このように民間人が参加する裁判制度はわが国近代初、というわけではなく,戦前・明治憲法下でも昭和3年に施行された「陪審法」がありました。 陪審法は、被告人が公訴事実を否認し、かつ陪審員による裁判を請求した場合に実施されると定めました。陪審員の資格は一定以上税金を納める30歳以上の男性であり、12名で構成される陪審員が、職業裁判官に対し有罪・無罪の答弁をするというものでした。
被告人にとって通常裁判より不利益な面も少なくなく,陪審員による裁判の実施は限られていたようです。
さて、ここまでは私も以前から知っている話でしたが、「法曹珍話閻魔帳」(尾佐竹猛著、批評社)によれば、なんと早くも明治6年に京都で陪審員裁判が開かれたことが紹介されています。
対象となった事件は,京都のさる豪商が東京へ転籍を願い出たものの,これを京都府が許さないため,転籍を認めない対応を不当なものとして訴えた,というものです。今日の行政訴訟の萌芽といえるでしょう。
三権分立が明確ではない時代背景もあって,京都府と司法省が争ったあげく,訴訟を受理してから陪審を設けるとの規則を制定し,一般市民ではなく官吏から9名を「参座」として裁判に参加させる,としたのです。結論は,京都府の敗訴でした。
この規則には,「拷問を用いる場合は参座の承諾を得ること」などとも定められいた,というのですから驚くほかありません。
(平成21年8月25日の河北新報リアスの風に掲載したもの)
2009年08月25日